【コラム】オオムラサキ 33回目 :2020-11月号

兵庫丹波オオムラサキの会  会長 足立 隆昭

昭和天皇とオオムラサキ

昭和天皇がご自身でオオムラサキを採集されそれに纏わる話が文芸春秋2006年3月号「昭和天皇」(福田和也)に掲載された。その記事を日本蝶類学会誌:Butterflies No47号に初代日本蝶類学会長五十嵐 邁氏が「オオムラサキと日本人たち」に寄稿されていたので引用、紹介します。

明治44年の夏、迪宮(みちのみや:昭和天皇の称号)と淳宮(あつのみや:秩父宮親王の称号)は、例年のように葉山や沼津ではなく、伊香保御料地で過ごした。
伊香保では虫を取るのに熱中した。
見晴山に二十一回も登りある日、捕虫網を構える迪宮の前に大きな蝶が現れて、紫色の翅を閃かせた。その姿は、ほとんど壮麗というべきものである。
迪宮は悪銭苦闘のすえ、網にその蝶をとらえた。弟のもとさらに一匹捕ろうと走った。

「この蝶々何ていうの」という迪宮の質問に、のちに鈴木貫太郎の妻で、当時皇太子の養育掛かりであった足立孝(たか)は答えず、それでは「虫を調べる本を取り寄せましょう。」といって、札幌に手紙を書いた。東北帝大農科大学(後の北大)の新進教授、松村松年に頼んで、彼の著書『日本千虫図解』を送ってもらうためである。日本産昆虫の体系的命名を基礎づけての本昆虫学の祖といわれた松村は、札幌農学校で足立元太郎(もとたろう)― 孝の父 ― の生徒であった。養蚕に関わっていた足立と松村はきわめて親しく、その関係で孝とも気やすい間柄だったのである。
とどいた図鑑を調べると、「オオムラサキ」だとわかった。
よろこんだ迪宮は、侍従長たちと提灯行列をしたという。
昭和五十三年、七十七歳の時のインタビューで彼の人は、この時のことを「本当に良い記憶」と回想している。

種名の決定は、迪宮を興奮させた。
毎日、蝶や蛾、甲虫などを捕えては、図鑑と首っ引きになり名前をしらべた。
そのうちに分類上の着目点や法則が、少しずつ理解できるようになった。
迪宮には、慎重な観察と、熟考が必要な分類がたいへん性にあった。

昭和天皇のオオムラサキに対する関心と愛着は意外に強いもので、1978年に蝶の研究に熱心な鳩山邦夫氏(国会議員)が皇居でオオムラサキを放し飼いにすることをおゆるしになったほどである。羽化させた蝶は次の代までは生存が確認できたが、残念ながら以後の定住には成功しなかった。

出典:日本蝶類学会誌 ButterfliesNo47号 五十嵐 邁氏寄稿から抜粋
文責:足立 隆昭

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